20070606

[Web]webちくま 鷲田清一「可逆的?」 13 〈死〉の人称

webちくま 鷲田清一「可逆的?」

13 〈死〉の人称

一人称の死の物理的経験不可能性
  • 経験は死とともに不可能になるからだ。いいかえると、死はいつも経験の彼方にある。死は現在(presence)になりえない。死はいつも不在(absence)として迫ってくるものである。
  • これに対して、他人の死はまぎれもない経験として生じる。だれかに死なれるという経験として。無関係なひとの死はひとつの情報として経験されるにすぎない であろうが、深い関係にあるひとの死は、「失う」という経験、(他者の、ひいては自己の)喪失の経験としてまぎれもないひとつの出来事となる。
一人称の構造
  • ひとはだれかに呼びかけられることによってはじめて、他者の意識の対象としてはじめて自己の存在を〈わたし〉として感じることができる。生涯だれにも呼びか けられることがなかったひとなど、想像しようがない。「だれもわたしに話しかけてくれない」と嘆きつつみずからいのちを絶つひとはあっても。
  • 〈わたし〉の存在には「わたし/あなた」という自他の人称的な関係が先行している

二人称的死-一人称的死-非人称的死
  • 〈わたし〉は「他者の他者」としてあるとするならば、わたしをその思いの宛先としていた二人称の他者の死は、わたしのなかにある空白をつくりだす。死というかたちでの、わたしにとっての二人称の他者の喪失とは、「他者の他者」たるわたしの喪失にほかならないからである。
  • 「死ぬ」ではなく「死なれる」ことが〈死〉の経験の原型だと言うときには、わたしの身に起こること、つまりはわたしの死は、二人称である他者の喪失を想像 的に自己に折り返したところに成り立つということが含意されている。
  • いいかえると、「自己の死」には、「他者の不在」という概念を自己のなかに反照させた 擬似二人称的な死であるということが含意されている。それは、わたしにとっての〈わたし〉の死ということなのである。
  • すでにそこに自他の可逆的な人称関係は含意されているわけだから、この〈わたし〉の特異性は存在としてはすでに媒介されたものだということになる。わたし がじぶんの死について語るときには、それはすでに「わたし」と「あなた」の可逆性に媒介された言説のレベルで言われているのであるから、そのときにはも う、「わたしの死」の単独性や特異性は概念として成り立っているにすぎないことになる
  • それは、純然たる一人称を超えるものを含んでしまっ ている。この意味で、「わたしの死」について語る言説は、「死なれる」という二人称の死から派生したある非人称的な語りなのである。わたしはそういう非人 称的な語りによってしか、自己の〈死〉にふれることができない

締め
  • 〈死〉と〈生〉の関係についてもそのことがおそらくは言えるであろう。〈死〉は、わたしにとって経験の、したがってまた意味の消失であるかぎりで、無意味 なものである。どこまでも不在のものである。その無意味なもの、不在のものについての語りのなかで〈生〉の意味が彫琢される。そのかぎりで、「死は生に意 味を与える無意味である」(V・ジャンケレヴィッチ)、と。


★鷲田氏は「わたしの死」を(非人称的に)語る前に、「わたし/あなた」という可逆的な言葉を習得した時点で、他に大勢いる「わたし」という語の発話主体とは区別される「特異性」や「単独性」をもった一人称的な〈わたし〉、純然たる一人称は成立しなくなるということを前提しているように思える。純然たる一人称とは何だろうか。「わたし」という語に不可逆性を付与したものだろう。他の何ものでもないこの「わたし」。しかし、「わたし」という言葉自体、「あなた」という二人称との可逆性の中からしか生まれることのできない関係的な概念で相対的なものに過ぎないので、そのようなものに、直感的に取ってつけたように「不可逆性」を付与してしまうと、その不可逆的性質をもった「わたし」と言う語は、本来想定されていた「わたし」という語から見ると屈折したものになってしまう。「わたし」という語が可逆的に適用可能である語という説を採用し、その視点から見た場合、不可逆的なわたし-「特異性」や「単独性」を持った純然な一人称的わたし-は奇妙なものとなる。可逆的用法の「わたし」を土台として不可逆的用法にの「わたし」を創出して主張するのは、砂の上に建物を建ててその堅固を主張するくらい、不安定で説得力のないものであると思う。他と代替不可能な「わたし」を語るために、「わたし」という語を使う、それを使って考えるのは語義矛盾であり、別の表現を考えた方が妥当であると思う。

★「特異性」や「単独性」を持った何かがもしあるとしたら、それは「わたし/あなた」関係以前のものだろうか。「わたし/あなた」の可逆的関係が適用可能であることによって「わたし」という語を習得し、わたしという意識が生じる。では、わたしだけのわたし、たる所以はなんだろうか。わたしが意識的にしろ無意識的にしろ巻き込まれている「二人称の関係」の総体なのだろうか。

★一人称の死は純粋に経験不可能。二人称の死は経験可能(三人称の死も可能)。一人称を表す語である「わたし」が成立するためには他者が必要不可欠。他者との接触により「他者の他者」として自己を認識。即ち「わたし/あなた」という語が可逆的な関係にあることの認識。他者がいて、その他者の他者たるわたしがいる。その関係は両者が存在している場合に成り立つ。二人称的他者の死が意味するのは、わたしがその他者となっている他者が死んでしまったということであって、即ち「わたし」を再帰的に構築していた「他者の他者」という関係性が消滅してしまうということである。

Engin ummæli: